高校の履修漏れ事件に思う2006年11月04日 10:24

日本は高校の履修漏れ事件で大騒ぎでしたね。なんとか補講という付け焼刃な対策で収拾を図る方向に進んでいますが、今の時点ではこれが精一杯、仕方がないでしょう。

それにしても情けないのはこうしたことを平然とやってきておきながら、あからさまになっても隠蔽しようとする学校の体質。いやだな、恥ずかしいなと思いますよ。なもんでわが母校が履修漏れに関与していたらいやだなと思うわけですけれど、具体的にどの学校で報告されあるいはばれているのかといった情報がインターネット上で見つからない。そもそも文科省は調査したリストを持っているはずで、その結果はウエブサイトに載せるべきだと思いますよ。それがしばらく何も情報がなくて、出たと思ったら「履修漏れの対応策について」なんて、文科省自身に隠蔽体質があるんじゃないかって思いますね。いやそれは今に始まったことではないか。

多分日本では、雑誌や新聞に具体的な学校名の入った報道が繰り返しなされているのだと思います。いろいろと探してみるとようやくそういう情報のまとめサイトが見つかりました。これを見て、もしご自分の学校名が載っていたらしっかり反省してください!(って、うそです)

サイトは本物、こちらです。

http://www20.atwiki.jp/hisshuu/pages/4.html

アメリカから見ることのできる日本の報道は限定的なものだけれど、そのなかで学校が言っていることは、大学の受験科目に特化した勉強をしたいという生徒の希望に沿ったとか、週5日制でコマ数が減ったのに受験に必要な勉強が足りないとか、まあ生徒のことを考えた措置なんだということなんだけど、本当に生徒のことを考えているのかといいたい。

そしてまた文科相の国会答弁なども「教育課程が実状にそぐわない点があるのかも知れない。見直しを含めて検討を指示している」などと言っているが、それが世界史や日本史などの必須はずしにつながるのだとすれば、それで本当にいいのだろうか?

立花隆氏が東大生の常識はずれについてここに書かれているが、氏のご意見、私も基本的に同感である。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/061101_yutori/index.html

そして氏の意見と未履修についての高校側の意見を照らし合わせて考えるとき、結局高校はいい大学にどれだけたくさんの生徒を入学させられるかという、学校の価値を上げることに腐心して生徒の将来像について無頓着だといえるのではないか、と考える。あるいは氏の言うように、常識はずれな学生をフィルタできない大学の入学試験にも問題があるのかも知れない。

それにしても氏が言うように、ゆとり教育が結局のところ偏った詰め込み式教育を助長しているのだとすると皮肉なものだ。日本の学校が、常識はずれでやる気のないだめ人間を大量輩出しているのだとすると、これは本当に憂慮すべきことだろう。これを機会に高校も大学も、どんな人物を養成したいのかを改めて考えることが大切なのではないだろうか?高校だって、本当の目標はいい大学にたくさんの卒業生を送り込むことではなくて、社会的に活躍する人材をどれだけたくさん輩出できるかなのだろうし。しっかりとした将来像を持って欲しいものだと思う。